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「天草の古都」熊本苓北をゆく -前編-

団体旅行コラム|2020年4月3日

富岡城からの風景

富岡城からの風景

天草最北端にありながら、かつて苓州と呼ばれた時代は天草の中心地だった熊本県苓北町。長崎に近く、キリスト教が天草で最初に入り、与謝野鉄幹や北原白秋ら「五足の靴」が旅を始めた玄関口でもあった。島原・天草一揆の転換点になった富岡城は、今もその堅牢な石垣がそびえる。「天草の古都・苓北」をゆく。

※この記事は、トラベルニュース様にご提供いただきました。

田嶋章二町長に聞く「『天草の古都』苓北町の歴史と文化」

ーー苓北町の歴史からお聞かせください。

苓北町は数百年にわたって東シナ海から有明海への出入口として栄えました。特に1205年からの約400年間は志岐氏が統治し、戦国時代末期には志岐麟泉が領主となって全盛期を迎えました。

かつて天草全島は「苓州」と呼ばれていましたが「苓」とは「甘草(あまくさ)」を意味し、苓州の北部に位置することから「苓北」と名付けられました。正確な記録としては残っていませんが、この地でアマチャヅルのようなものが採れたのでしょう。

1566年、天草で初めてキリスト教の布教が苓北の地で行われましたが、現在の苓北町役場庁舎はそうした苓北町の文化や歴史を知った上でコンペに出された黒川紀章さんのデザインによるものです。シンボルタワーは教会の尖塔を思わせるつくりで、建物は白を基調にした穏やかな丸みを帯びた外観になっています。ロの字型に配置された中庭は、南蛮人宣教師のふるさとを感じさせます。

コンペには多くの設計士に関わっていただきましたが、黒川紀章さんだから選んだのではなく、苓北町に最もふさわしい造形だったので選考委員は諸手をあげて黒川さんの作品を選びました。

田嶋章二・苓北町町長

ーー天草・苓北を語るには島原・天草一揆を抜きにはできないですね。

徳川時代には肥前唐津藩が天草を支配し、肥前唐津藩の寺沢志摩守広高によって1602年ごろ、富岡城が築かれました。その後、島原・天草一揆が起こり、富岡城は幕府側の拠点として天草四郎率いる一揆勢1万2千人の攻撃を受けますが、落城しませんでした。落城しなかったことが一揆後の徳川政権の安定をもたらしたと言われています。

歴史に「もし」はないとのことですが、もし一揆勢が勝っていたら、九州はスペインやポルトガルの植民地になっていたかもしれない、という説もあります。連戦連勝できた一揆勢でしたが、ここで富岡城を落とすことができず、彼らは退散するとき「これで四郎さまの神通力もついえたか」と落胆のなかで坂瀬川から海を渡り、原城に集結しました。これは幕府側の思惑通りで、原城に集結したことが戦いの終わりだと読み、徳川に関わる武将の団結を図り、見事成功するわけです。

ーー一揆は徳川政権の安定に役立ったということですが、その後の苓北については。

一揆の終了後、築城の名手と言われた山崎甲斐守家治が大規模な修復と拡張を行い、現在の富岡城の形を完成させました。やがて天領になった天草は初代代官・鈴木重成を迎え、戸田忠昌の城主の時代を経てやがて城は廃城となりましたが、天領として天草の行政の中心となりました。

富岡城

ーー苓北が天草の中心だった時代、多くの著名人が関わったと聞きます。

島原・天草一揆の本渡合戦で唐津藩の番代であった三宅藤兵衛が戦死します。三宅藤兵衛は今年の大河ドラマ「麒麟がくる」の主人公、明智光秀の孫です。藤兵衛は光秀の娘のガラシャの姉の子どもです。

天草の初代代官で天草の復興に尽力した鈴木重成とその補佐をした実兄の正三和尚。重成は三河足助の出身で、大阪とも縁が深く、長居陸上競技場の隣にある臨南寺は重成の創建した寺で、もともと長居陸上競技場は臨南寺の敷地だったと言われています。

町内にある鎮道寺には幕末に活躍した勝海舟の落書きと宿泊記念碑が残っています。ほかにも幕末の儒学者・頼山陽、富岡での一夜をテーマに「天草灘」を書いた林芙美子、1907年に与謝野鉄幹や北原白秋ら5人が東京から九州・天草に来て「五足の靴」の旅を始めたのも苓北でした。

1974年に「月山」で芥川賞を取った森敦は兄が苓北町になる前の富岡町長で、評論家の吉本隆明の親は苓北町で造船業を営んでおり、苓北町とも縁が深いんです。

富岡巴崎の風景

ーー陶磁器の原料の産地でも名高いのが苓北町だとお聞きしています。

天草陶石は品質、産出ともに日本一といっても過言ではありません。今なお数多くの古陶片が残る幻の窯「古内田皿山窯」は日本で2番目に古い窯跡だと言われています。

ーーこれからの苓北町の取り組みついて教えてください。

天草は明治以降、長崎裁判所の管轄から分離して富岡県となり、その後天草県と改称となります。その後も県区域の改正が続きますが、明治6年に行政庁が移転するまで富岡が天草の中心地でした。天草の古都であった歴史や文化を町民、全国にアピールしていきたいと思っています。

古内田皿山窯
【TEL】0969-35-0222
【住所】天草郡苓北町内田554-1
【営業時間】8:00~17:00(日、祝日は9:30~17:00)
【駐車場】100台(無料)

“難攻不落”の富岡城を歩く 天草一揆の転換点になった名城/苓北

二の丸広場にたつ銅像「天草回天之碑」

「難攻不落の富岡城」。歴史上最大規模の一揆「島原・天草一揆」を語るうえで欠かせない事柄だ。天草四郎率いる1万2千もの一揆勢が、3千の兵の守りの堅さから撤退を余儀なくされたという富岡城は、数百年にわたり天草の中心地だった苓北町のまさに“本丸”。地元の誇りであるここから、苓北の旅が始まる―。

苓北町は、天草にキリスト教を導入した志岐氏が戦国末期まで治め、その後も天草の中心であり続けた。富岡城が築かれたのは、徳川の時代に入ってから。1602年ごろに肥前唐津藩の寺沢広高が手掛けたとされる。

そして1637年、島原・天草一揆。幕府側の拠点となり、一揆軍を撃退。この“難攻不落”の富岡城が一揆の終結、徳川幕府の安定につながるエポックメーキングな出来事だった。

一揆後には築城の名手、山崎家治が大規模修築・拡張を行い、現在の富岡城の規模に。その後に天草は天領となり、初代代官・鈴木重成が天草復興に力を尽くした。

富岡城は天草灘に突き出た富岡半島の山部にたつ。この特異な地形を生かしたものとされるが、現代にあっては富岡港の入江や長崎県側の島々、苓北の山々などが見渡せる絶景スポットとしての価値を生み出した。

現在、二の丸駐車場までは車での来城が可能。二の丸から本丸へと登ると、本丸跡には「富岡城・熊本県富岡ビジターセンター」がたつ。雲仙天草国立公園、天草地域の魅力を紹介している。櫓や高麗門、白塀なども復元されており、往時のたたずまいが眼前に広がる。
また、復元した二の丸長屋跡は「苓北町歴史資料館」に。富岡城や島原・天草一揆について資料や動画などで解説している。なぜ一揆勢は攻め落とせなかったのか。その理由にここで迫ろう。

二の丸広場には、鈴木重成と、補佐の実兄・正三和尚を「天草の恩人」として、明治維新で活躍した勝海舟、幕末の儒学者・頼山陽という苓北を訪れた2人を「日本の恩人」として称える銅像「天草回天之碑」がたち、今も苓北のまちを見守っている。

苓北町ボランティアガイド協会のガイドツアーで富岡城をより深く知る

富岡城と城下を散策するには、苓北町観光ボランティアガイド協会によるガイドツアーを利用したい。富岡城での戦いやキリシタン迫害の歴史などが集中する富岡地区を歩き、その歴史を深掘りしよう。
5人までの利用で1時間コースは1人1千円、2時間コースは同2千円、3時間コースは同3千円。5日前までに要予約。問い合わせは電話0969―35―1111。

熊本県富岡ビジターセンター・富岡城
【TEL】0969-35-0170
【住所】天草郡苓北町富岡字本丸2245-15
【定休日】毎週水曜日(休日の場合は翌日)
【営業時間】9:00〜17:00(最終入館16:45)
【駐車場】80台、大型3台
苓北町歴史資料館
【TEL】0969-35-0712
【住所】熊本県天草郡苓北町富岡2245-11
【定休日】毎週木曜日(祝・休日の場合はその翌平日)
【営業時間】9:00〜17:00(最終入館16:30)
【駐車場】20台(無料)

戦国から幕末まで 苓北歴史舞台をゆく

キリシタンの霊を慰める「千人塚」

苓北町内には島原・天草一揆にまつわる史跡が多く残る。訪ね歩くことで、今から400年近く前、天草の中心地だったこの地で起きた歴史の一端に触れてみたい。

天草四郎乗船の地は町東部、国道389号線沿いにある。富岡城攻略に失敗した天草四郎ら一揆勢が島原へ向かい乗船した。自然石を舟に、十字架を帆柱に見立てた石碑がたつ。

一揆後に天領となった天草の初代代官・鈴木重成の供養碑は富岡に。天草の復興に尽力したその功を称えようと家臣らが建立した。

この一揆の悲惨さとキリシタンの無念を伝える富岡吉利支丹供養碑。討ち死にしたキリシタン3333人もの首が埋葬された地に、鈴木重成が霊を慰めようと建立したとされる。別名「千人塚」。重成の供養碑にもほど近い。

志岐教会を迫害から守り続け、斬首されたアダム荒川の殉教地であり、現在の記念公園は富岡城二の丸駐車場近くにある。

それ以前、戦国時代に時間を戻そう。志岐城跡は、天草で初めてキリスト教を導入した志岐麟泉の居城。「天草五人衆」としてこの地で栄えた志岐氏だったが、豊臣秀吉の不興を買い、1589年に小西行長、加藤清正の連合軍との「天正の天草決戦」で敗れた。今は志岐城跡公園として整備されている。

時は幕末に飛ぶ。実は苓北には勝海舟が2度訪れていた。鎮道寺。本堂の柱に「頼まれぬ世をば、経れども契りあれば、再びここに月をみるかな」と落書きしたものが、今も残る。境内には勝海舟宿泊記念碑も。

頼山陽や林芙美子、「五足の靴」 文学散歩も苓北の魅力

5人が上陸した富岡港にある「五足の靴」解説板

苓北町には文学の香りが漂う。町の歴史を紐解く中で、近代の文豪たちがこの地を訪れ、作品を残したことに気づく。キリシタンと天草一揆の歴史と天草灘の景観が交わるこの地固有の風土に魅せられたからだろう。

幕末の儒学者・頼山陽は富岡城下を訪れ、天草灘の夕景に感動して名吟「天草洋に泊す」と詠んだ。今の富岡地区には頼山陽公園が整備され、詩碑がたつ。

大正―昭和初期に活躍した小説家、林芙美子は長崎から海を渡り富岡に宿泊し、富岡のまちを舞台にした「天草灘」を発表。宿泊した岡野屋旅館には宿泊当時の客室が保存されており、自筆の絵や愛用の品などが残る。玄関脇の文学碑には「旅に寝てのびのびとみる枕かな」との句が。

明治40年、東京から長崎を経て富岡にやってきたのは与謝野鉄幹、北原白秋、平野万里、吉井勇、木下杢太郎の5人の詩人。天草西海岸沿いを旅し、大江天主堂のガルニエ神父を訪ね、南蛮文化について話を聞いた。その時の紀行文は「五足の靴」として発表されたほか、木下杢太郎の詩集「天草組」、北原白秋の「邪宗門」などにも記述がある。

長崎とのつながり深い苓北 ペーロンなど文化色濃く

苓北町の文化は、熊本県にありながら、隣の長崎県の文化の影響を強く受けている。古くは長崎へ働きに行く人が多かったという地域特性などから地域間交流が盛んで、文化が持ち込まれたと伝わる。地理的な長崎との近さもあり、長崎から熊本への旅の玄関口となるのも当然か。熊本天草×長崎の“ハイブリッド”苓北なくして充実した旅はあり得ない。

苓北へのアクセスは、長崎市からなら、苓北観光汽船の高速船を使えば、長崎市・茂木港から苓北町・富岡港まで45分。長崎市中心部から茂木港までは車で20分なので、1時間強あれば苓北に着ける。

熊本方面からは飛行機で阿蘇くまもと空港から天草空港へ20分、そこからレンタカーを使えば30分だが、熊本市内から車を使うと約2時間半かかることを考えると、ツアーなどで苓北を組み込むなら長崎方面から高速船を使う方が便利だ。揺れが少なく快適な船旅が楽しめるのもいい。

高速船の料金は片道大人2030円、往復3860円。15人以上の団体は1人1830円。乗用車は乗船できないが、富岡港からレンタカーが利用できる。

長崎とのつながりは、文化や郷土芸能においても感じることができる。食や建造物から感じる南蛮文化もだが、もっともわかりやすいのは長崎の夏を代表する伝統行事「ペーロン」。中国から伝わった木造の手漕ぎ舟に乗り、速さを競うものだが、苓北でも古くから行われ続けている。1670年代、今から約350年前に長崎から伝わったとされ、苓北の夏一番のイベント「苓北じゃっと祭」で「天草苓北ペーロン大会」が開かれている。例年、町内外から約30チーム、約1千人が参加して速さを競うという盛大な大会として親しまれている。

天草苓北ペーロン協会では4―10月、ペーロン体験プログラムを実施。修学旅行や企業の研修などの利用を勧めている。料金は1人2500円。

夏一番のイベント「苓北じゃっと祭」で行われるペーロン大会。体験も可能

町の西北端、富岡半島の富岡稲荷神社では毎年旧暦の2月、初午の日に行われる「初午大祭」で全長11メートルもの大蛇が演舞する「蛇踊り(じゃおどり)」や「川舟」「コッコデショ」など町ごとに出し物を奉納。これらは「長崎くんち」の流れをくんでおり、ここにも長崎文化の影響を色濃く感じることができる。

苓北観光汽船
【TEL】富岡港:0969-35-0705 / 茂木港:095-836-2613
【住所】富岡港:熊本県天草郡苓北町富岡2711-47 / 茂木港:長崎県長崎市茂木町75-8
【ホームページ】http://www.reihoku-kisen.jp

海広がる天草苓北 息呑む“絶景”を味わう

自然の宝庫・天草に位置する苓北町は、絶景スポット。思わず息を呑む景観を目で味わおう。

海岸線を走れば天草灘の清々しい光景に出会える。かつてこの地を訪れた幕末の儒学者・頼山陽は夕景の美しさに対し句を詠んだ。おすすめは、夕暮れ時に天草西海岸からみる沈みゆく夕陽。美しさに感動すら覚えるだろう。

天草灘の夕陽

天草灘に突き出た形の富岡半島は、いたるところで絶景が。砂嘴によりできた巴崎は「小天橋」と呼ばれる美観が見もの。半島先端の四季咲岬公園からも天草灘の絶景が眺められ、秋―冬は夕景が輝く。砂浜に咲く県指定天然記念物・ハマジンチョウの群生や様々な植物を愛でるのもいい。

地域に息づく歴史への誇りを感じに

島原・天草一揆の舞台となった富岡城から町全体を見渡す絶景、儒学者・頼山陽(らいさんよう)を感動させた天草灘の夕景・・・。
苓北町に宿る誇り高い歴史は、豊かな景観とともに、今も町の人々の心に息づいているようです。

かつて天草全土が「苓州」と呼ばれていた時代、数百年にわたって政治・経済・文化の中心地は、苓北町(れいほくまち)だった―。
田嶋章二町長のインタビューでその事実を知った私たちは驚くとともに、今取材のテーマを「天草の古都」にしようと決めました。

田嶋町長のお話は新鮮な話ばかりで、苓北町が長い間中心地として栄えてきた理由がわかりました。その一つ、苓北町は熊本県ですが長崎県近くに位置することから、天草で最初のキリスト教伝来地であり、南蛮文化の影響を強く受けているということです。

次回後編では、その南蛮文化の名残が色濃く感じられる苓北町の「食」や、豊かな特産品についてもたっぷりお届けいたします!